(2003年当時)
その日の夜はすごく寒かった。僕はコートを来て、帽子とメガネとマスクとマフラーをして、都内のライブハウスに来ていた。防寒のためもあるけれど、顔を知っている事務所のスタッフがいた場合、ばれないようにしなければならないからだ。(作曲家と所属アーティストは個人的にコンタクトを取るのは許されていない。ましてやそこは・・・な事務所だ)
受付でチケットを買う際、名前を言わなければならないが、僕の苗字は珍しい。
「お名前は?」「田中です。」
幸い、そこにいたスタッフは、会ったことのない新しい人だった。すんなりと入ることができた。
ライブはどんどん進んでいく。僕が曲を提供した人も歌っていて、なかなか盛り上がっていた。僕は極力目立たないよう、端の方に立っていた。お目当ての女の子、トワさんの出番は次に迫っていた。
いよいよ、トワさんのライブが始まった。会場の空気がそれまでと打って変わった。自分が思っていた通り、、いや、思っていた以上に素晴らしかった。トワさんは元々音程は良い方だったが、ややフラットする傾向が以前はあった。それが見事に解消されていた。そして、歌唱力、声質の良さ、表現力、、全てにおいて、僕がずっと聴いていたデモテープの頃より、大幅に進化していた。
「よし、このコにお願いしよう」
トワさんのライブが終わって、次のアーティストの演奏が始まった。楽屋から彼女が出てきて、近くにスタッフがいなくなった時、僕はマスクを外して、そばにいった。
「あっ、野井さん!!」「シーッ」
彼女は僕のことを覚えていた。僕は口に人差し指を立て、用意していた自分の名刺を渡した。名刺の裏には、今の自分の活動において、よかったらぜひ力を貸してほしい、このことは事務所には内密に、ということを予め書いておいた。
名刺を渡した後、何事もなかったかのように、トワさんとは離れた場所にいた。最後までいると危険な気がしたので、ライブの演奏の途中で、会場を出ていくことにした。渡した名刺に、「よかったら連絡先を教えてください」と書いてあったので、別れ際にトワさんに、連絡先の書いた紙をさり気なくもらい、無事にライブ会場を後にすることができた。
帰りの電車の中で、ちょっと考えた。
「今日はあんなことしてしまったけれど、トワさんはなんだかんだで事務所に所属している。作詞・作曲もするシンガー・ソング・ライターだし、果たして作曲家のデモの歌入れ(仮歌)なんて、そんな面倒くさいことやるかな・・・」
それでも、やるだけのことはやったという、充実感があった。うちに帰ってから、すぐにメールを書いた。しかし、、、
メールを何度出しても、エラー・メッセージが出て届かないのだ。苦労の末、折角連絡先を聞いたのに。
(次回) その35 仮歌